山口県の偉人

 山口県は朝鮮半島に近いため、古代よりアジア大陸との往来があり、早くから稲作がおこなわれていました。 各時代の為政者も貿易に力を入れてきたようです。
また、初代の伊藤博文から96代の安部晋三まで9人の総理大臣を輩出しています。

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毛利元就毛利元就
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)出身の戦国大名。
中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、用意周到かつ合理的な策略及や危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く策略家として名高く「戦国最高の知将」と今も評される。孫の輝元(てるもと)は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖ともされる。
三矢の教え(1本の矢では簡単に折れるが、3本束ねると容易に折れないので3兄弟で結束すること)として有名な三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、毛利元就が1557年に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書である。
こうした「毛利家文書」は重要文化財に指定されており、山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。
また、オバケのQ太郎はこの話を聞き居候先の兄弟げんかを止めようとして矢の代わりに鉛筆を使っていさめようとしたが鉛筆が折れて失敗している。


山口県の歴史

古代
朝鮮半島に近い山口県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2〜3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われてきました。
飛鳥〜奈良時代
4〜5世紀頃には大和政権による統一国家が形成され、県内は7つの地域に分けて統治されていましたが、7世紀の大化の改新により、周防(すおう)長門(ながと)の2国に統合されました。
平安〜鎌倉時代
平安時代から鎌倉時代にかけては、周防は大内(おおうち)氏、長門は厚東(ことう)氏が治めていました。
室町時代
室町時代には大内氏が防長二国を平定し、山口に京の都を模した町をつくるとともに、朝鮮や明(中国)との貿易や大陸文化の導入に努めました。そのため 、山口は全国でも大きな都市として栄え「西の京」と呼ばれるようになり、華やかな大内文化が開花しました。
戦国時代
戦国時代に大内氏は家臣に討たれ、その家臣は毛利元就(もうりもとなり)に討たれ、元就の孫の輝元(てるもと)は、豊臣政権のもと、中国8カ国を領国としました。
江戸時代
1600年の関が原の戦いで徳川家康率いる東軍に敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に領地をへらされ、居城(きょじょう)を萩に築きました。江戸時代、毛利氏は内政の充実に努めましたが、8カ国分の家臣を2国の収入で養うはめになったため藩財政の運営は困難を極めました。歴代の藩主は、米の増石(ぞうこく)をはかる一方、紙、塩、ろう等の殖産政策によって藩財政の強化に努めました。
近代
また、教育を重んじていたことが、幕末に吉田松陰、高杉晋作(たかすぎしんさく)など数多くの優れた人材を輩出し、長州藩が明治維新を推進する中心的存在となることにつながりました。江戸幕府が滅んで、明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して廃藩置県(はいはんちけん)を推進し、現在の山口県が誕生しました。

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